その勉強、作業じゃない?
かもめです。
早速だが、今回は最近友人と話していてちょっと引っかかった点があったのでそのことについて考えていく。
自分は今大学に通っている。
その中で日々課題やレポート、プレゼンなどが課されている。
自分の周りの友人や知り合いを含め多くの学生はこの類のもののことを勉強と呼んでいる。
あ~勉強しなきゃ〜と言ってこの類のものに取り組んでいる。
自分はこの考え方に大きな違和感を覚えている。
自分はこの類のもののことは作業であると認識しているからである。
ここに大きな認識の違いが生じているのである。
講義を受ける為に事前にやってこなければならない課題を片付けることや、講義で課されたレポートを仕上げることや、プレゼンのパワポを作成することは単なる作業であって勉強ではないと自分は考えている。
自分にとって勉強とは、何かに対して自主的に興味関心が向き、それを能動的に学んだり知らべたりすることによって自分自身に内在する知的好奇心が刺激されることであると認識している。
一方で、受動的に何か提示されていることに対してその枠内で課されたものをやり遂げることを自分は作業であると認識している。
ほぼほぼの大学における課題やレポートやプレゼンの資料作りはそこに知的好奇心を刺激するものはなく、やらなければならないという使命感や状況に置かれているからただやっているだけである。
これを勉強と呼んでしまって良いものであろうか。
自分は良いとは思わない。
勉強とは主体的な、能動的な学びのことであるはずだ。
この作業を勉強であると思い込んでしまって、作業を多くこなしたことに満足し、本当の意味での勉強をしなくなってしまうことは本当に危険である。
作業はあくまでも、勉強するための、何かを学ぶための準備にすぎないのであってそれ以上でもそれ以下でもない。
多くの大学生諸君はこのことに早く、早急に気がつくべきである。
偽りの、口だけの、形だけの勉強とは到底呼べないものはさっさと片付けて価値ある勉強の時間を増やすべきだ。
自分は主に、読書やそこから気になったことをネットや別の本によってさらに深めて自分の知識としたり、最低限の語学力の向上のための時間のことを主に勉強と呼んでいる。
しかしながら、自分の場合は日常生活の中に多くの学ぶ機会を見出すことができているので起きている時間の多くが勉強の時間であるといっても過言ではない。
何か一つのことを学んでいるときや気になったことがあった時にそこから芋づる式に広がっていって新たな、思いもよらないことを学ぶことができたときは質の高い勉強ができたと感じることができる。
さらにそれは自分の知識欲を満たしてくれる行動でもある。
人は学ぶことをやめたら終わりであるとさえ自分は考えているため、死ぬまでずっと学び続けていたいとも思う。
それが多くの人々にとってどんなに小さなことであったとしてもだ。
また、この自分が学んだことを他の誰かに教えたり説明したりすることによってもっとその学びは深く自分のものとなる。
人に説明することによって、自分が何を理解していて、何を理解できていないのかということが浮き彫りになるのである。
ここに作業のような思考停止状態でもできるような容易さはなく、常に頭をフル回転させて脳みそを酷使していく必要がある。
テクノロジーが進歩し、事務的な、作業的な仕事はロボットやAIに取って代わられてしまう時代がすぐそこにやってきている中で今もなお作業に尽力することに何の意味があるのであろうか。
作業は決して楽しいものではないが、学ぶということは本当に楽しいことである。
自分が興味関心が強い分野であれば、多くの人は時間を忘れて調べたり学んだりすることができるはずである。
その学びの範囲を広げることができれば、自然と物事に対する考え方や捉え方が変わってくるはずだ。
今は面白くないと思っているようなことでも面白い、もっと知りたい学びたいと思えるであろう。
今回は、勉強と作業は全くもって違うものであるということについて考えた。
とはいえ自分も明日締切の作業がまだ何個か残っていることはとりあえず忘れておこう笑
勉強と作業どちらをするにも使える考え方はこちらの記事に。
勉強を習慣化させたいならこちらの記事に。
かもめ。。